流れる時間の行き着く先

20180604

 

今日は朝から大学へ行く用事があったので、久しぶりに電車で大学へ行った。学部生のころは毎日電車と自転車で通学していたけれど、最近は週に一度くらいしか通学する必要がないので車で通学している(往復の電車代より、一日の駐車代のほうが安い)。久しぶりに電車で大学に向かうのは、なんだかとても懐かしい気持ちがした。

運よく当駅発の電車に乗ることができたので、まだあまり混んでいない車内で発車時刻を待つ。日頃こんなに早い時間から活動することがほとんどないせいで堪えきれない眠気にうとうとしていると、左の方から歩いてきた男の人が急に私の隣に座ってきた。周りにはたくさん空席があったので、何でわざわざここに座るのか少し驚いていると「おはよう」と声をかけられて更に驚いたが、顔を見ると高校時代のクラスメイトだった。その友達とは1年位前まではよく何人かで一緒に飲みに行っていたけれど最近はめっきり会う回数が減っていて、最後に会ったのはいつだったか思い出せないくらい久しぶりの再会だった。とは言え1年のブランクというのは実際のところ無いに等しく、偶然の再会に驚く間もなく、すぐに話題は互いの近況、就活についてシフトしていた。

 

その友達とは高校三年の時のクラスが同じだった。当時のクラスは半数が浪人を経て大学に入学していて、加えて院に進学した人も多く(私は浪人生でなく留年生だけれど)私と同様に来年卒業を迎える元クラスメイトが何人もいる。そんな彼らと最近全く交流のなかった私とは対象的に、詳細に各々の近況を把握している友達から「○○は〜で、○○は〜に決まったって。二人とも東京。○○は勤務地が山口らしいよ」などと元クラスメイトたちの就職先を教えてもらった。その友達はどうやら3月早々に東京の会社へ内定が決まっていたらしい。皆自分の行きたい進路に就けたようで、素直に「おめでとう」と気持ちを伝えた。

 

「あと就職先決まってないのは○○だけか〜。」と、友達が特にこちらに気を使うわけでも馬鹿にするわけでもない、平温なトーンで言う。私は「そうだねぇ。」と答えた。駅に電車が到着する。「それじゃあまた。」「就活がんばれ。終わったらまた皆で飲みに行こう。」当たり障りのない言葉を交わした後、私は一人で電車を降りた。改札口までの通路を歩きながら、就職先が決まるまで私は皆とは飲みにいけないのか、と恐らく純粋な気持ちで(もしくは特に何も考えずに)応援の言葉をかけてくれた友達に対して、ほんの少し意地の悪い気持ちになった。

 

 

大学について、ゼミを終えて、研究室の机で一息ついた瞬間にふと、朝のやり取りを思い出して頭の中で反芻した。この会話を思い出す事で気分が落ち込んだり、自分の未来に不安になったりする事は特になかったけれど(いっそなった方がよかったのかもしれない)、私以外のクラスメイトは全員大学卒業後の進路が決まっているという事実に、なんだかすごく不思議な気持ちになった。皆、卒業後の進路が決まっている現在、一体どんな気持ちで今を過ごしているんだろう。過ぎて行く時間に対して、何かリミットみたいなものを感じたりするんだろうか。現在過ぎ行く時間に終わりを感じられない私も、就職先が決まったら何か変わるんだろうか。就職先が決まるというのは、一体どんな気分なんだろうな。

 

あと就職先決まってないのは、私だけか。

書き置き

男の人の前でタバコを吸うのが怖い。正確に言うと、私が喫煙者であることを知らない年上の男の人の前でタバコを吸うのが怖い。私がタバコを吸っている姿を見て驚いた顔をした後少しがっかりするような素振りをされるのが、すごくすごく、ものすごく嫌だ。昔の記憶、テーブルの上に置かれたくしゃっと潰されたタバコの空き箱と、もくもくと口から煙を吐きながら言われたあのセリフが、いつまでもはっきり頭の中でリピートされる。『お前タバコ吸うのか?女性がタバコ吸うのは最悪だよ、まずタバコを吸う女は肌が汚い。女性は絶対にタバコを吸わない方が良い。』

 

 

先日、研究室の教授の事務所へアルバイトに行った。細々した仕事を一つずつ片付けていって夜の10時を回った頃、任されていた全ての仕事が完了してしまった。普段は大体12時近くまで仕事をしていて、恐らく今日もまだ任されていないだけで未着手の仕事があるんだろうな、と思いつつ仕事を振ってくれる事務所の人はちょうど打ち合わせ中で、完全に手持ち無沙汰になってしまった私は、一緒に仕事をしていた後輩から言われた「タバコ行きませんか」の一言に、少し考えて「そうだね」と返した。

これは偏見かもしれない実感として、建築事務所で働いている人の喫煙率は全体の平均と比べるとものすごく高いと思う。ここの事務所も例外ではなく、十数人いる所員の中でタバコを吸わないのは紅一点である女性の所員さんただ1人だけだ。そんな環境でありながらも、この事務所の「喫煙所」と呼ばれる場所は非常階段に接続している小さな小さなテラススペース1つのみで、日中このテラスに行けば必ず誰か1人は居る、というのがここの日常となっている。例に漏れず、私も建築事務所で(アルバイトとして)働く喫煙者だけれど、私はこれまでこの喫煙所でタバコを吸ったことが一度もなかった。

少し緊張しつつ、ただ今所員の人たちはみんな打ち合わせ中だからきっと鉢合わせることはないだろうと考えながら、後輩とくだらない話をしながら小さなテラスでタバコを吸った。その時の私は完全に気が緩んでいたんだと思う。ガチャっという扉の開く音と共に、数人の所員さんが喫煙所に入ってきた。その瞬間、全身の血の気が引いて、私は扉の方に顔を向けることができなかった。案の定、背後から「なんだ、さとうさんタバコ吸うんだ」と少し驚きを含んだ声が聞こえて来る。私は今すぐ消えたい気持ちでいっぱいだった。

 

 

私は大学院の途中で研究室を移動している。このことについて言及するのは、すごく難しい。特に話したいことがないといえばそれまでだけれど、この一連の経験は多分私の中で一生消化しきれない出来事でもあると思う。結果的に私は研究室を辞めて、現在は無事新しい研究室に籍を移すことができたので何も問題はない。ただ、今でもあの頃の色々な記憶がフラッシュバックしてきて気持ちがダメになることがある。むしろ、研究室を移動する前には麻痺して感じていなかった痛みまで、今でははっきり知覚できるようになってしまった。セクハラ、パワハラ、最近ではよく目にするワードを目にするのも辛い。最近ツイッターを触りたくないのもそのせいだ。様々な意見を目にする事が出来る自由な場であるインターネット上で、様々な意見を目にする事が辛い。色んな意見を持つ人がいる事実を、知りたくないと思う。

少しそれた話かもしれないけど、以前ツイッターで連携させているお題箱に「さとうさんはフェミニストなんですか?」という質問が来ていた。私はこれに何も答えなかったけれど、多分答えはNOだ。この質問をした人は、私がツイッター上で時々フェミニズムを感じさせる発言をするのを受けて、そう投げかけてきたのではないかと思う。自分でも自分の事はよく分からないし、私の事をフェミニストだと思うのであればそれはそれで構わない。ただ、私が「そういう」内容のツイートをするときに何よりも強く考えているのは、女性の立場を守りたいとか男女平等を目指したいだとか、そんな大それた事ではなくて、私を否定しないでほしい、ただそれだけだ。

『断ろうと思えば断れたはずなのに』『結局どちらにも非はある』『騒ぎ立てるほどの事でもないのでは』そんなの全部わかってる。とっくに何百回、何千回と自問自答を繰り返してる。うるさい、全部うるさい。私の事を誰も否定するな。私の事を否定していいのは私だけだ。頼むから、もう何も言わないでほしい。

 

 

狭い喫煙所の真ん中で血の気が引いている私に、その後待っていたのは穏やかな歓迎だった。「なんだ、さとうさんタバコ吸うんだ!知らなかった。遠慮せず普段からここで吸えばいいのに」もちろん私も、世の中の男性全てが喫煙者の女性に対して批判的だなんて、そんな事は思っていない。むしろそんな男性は少数派だという事も知っている。それでも、過去に投げかけられたあのセリフを忘れる事が出来ない。きっと受け入れてくれるはず、そう思っていてもタバコを持つ手が緊張で微かに震えるのを止められない。

 

この日記は、誰かに何かを伝えたくて書いたわけではないし、これを読んで何かを感じてほしいわけでもない。ただ、現在の自分が感じている事を書き残しておきたかっただけだ。

そう書きつつ、誰でもない誰かに、私の過去を全て許してほしいと思ってしまう。

芒果鳳梨果肉添加

今日は朝から1日、修士論文のゼミ準備をしていた。月曜日の午前中にゼミがあるので、毎週日曜日の夜は憂鬱な気分でパソコンに向かう。論文の執筆作業(今はまだ執筆なんて夢のまた夢、という段階だけど)は好きだけど、すごく面倒。たのしいけど、めちゃくちゃしんどい。早く今のこの苦しいフェーズを超えて、すいすいと楽しく論を進められる段階へ進みたい。

パソコンで作業をしながら何か口にするものが欲しくて、この間行った台湾で友達へのお土産として買ってきたものの結局渡せずにいたハイチュウを、まあいいかと思って食べた。中にドライフルーツが入っていて、日本のものとは違ってパイナップルやマンゴーなど本物の果物に近い味がした。図らずも美味しいお土産を買ってこれて嬉しく思う反面、友達にちゃんと渡せばよかったな、とほんの少しだけ後悔。また台湾に行く機会があればもう一度お土産に買おう、と思いながら全て食べきった。

 

7月の末頃から2週間、東京へ行くことになった。その期間中泊まる宿を検索したら、何処もものすごく高くて泣けてくる。東京の土地はどうしてこんなにも高価なんだ。来年東京で就職をしようとしている私は、果たして本当に、この高価な東京の土地の一角に自分の家を構えて生活が営めるんだろうか。気が遠くなる。私はなぜ東京を目指して、東京に行こうとしているんだろう。東京には何があるんだろう。東京で私はどうなりたいんだろう。なんだかもう、自分でもよくわからない。

夏の準備

5/24

 

目覚ましで目を覚ます。ここ最近目覚ましをかけてちゃんと起きれた試しがなかったが、この日は昼に美容院の予約を入れていたので、いやいやながらもベッドから身体を起こした。前日の夜は何故だか忘れたけどお風呂に入らずに寝たため、数時間後には頭を洗われているのに…と思いながらシャワーを浴びた。いつもより気持ち少なめのアウトバストリートメントをつけて髪の毛を乾かしたあと、窓の外を見ると前日の雨が嘘のような晴天で、外の気温を想像しながら真っ白な半袖のカットソーに腕を通した。今年初めての半袖での外出。電車に乗ったあと、日焼け止めを塗るのをすっかり忘れていたことに気づく。日を浴びるとあっという間に焼けてしまう肌を気にしながらも、以前誰かに言われた「1日10分くらいは日の光を浴びないと、生きるのに必要な養分が身体の中で正常に作れないんだよ」というセリフを思い出して、今日は日光を浴びる日なんだと開き直ることにした。実際、肌で日光を浴びるのはとても気持ちが良い。それなのに心の底ではいつまでも日焼けを気にする自分のせせこましさに、悲しいような情けないような、なんとなく虚しい気持ちになった。

 

すっかり短くなった髪型で美容院を後にする。こんなに髪の毛を短くしたのは(記憶になかったが後で母に聞いたところによると)幼稚園の頃以来だ。果たしてこの髪型が私に似合っているのか、初めて見る自分の姿にまだ少し慣れていないのでよくわからないけど、頭が軽くて清々しいところはすごく気に入った。これから暑くなるにつれて面倒になるお風呂上りのドライヤーの時間が、少しでも快適になってくれれば願ったり叶ったり。髪型が変わると、身につけている洋服の印象も一気に変わる。その日は白い半袖のカットソーに黒いスカートというシンプルな服装だったけれど、髪の毛を切る前と後では雰囲気がまるで違った。ぴょんぴょんと毛先が軽く跳ねた頭を撫でながら、今年の夏はどんな格好をしようかな、そんなことを考えながら、バイト先の事務所がある駅へ地下鉄で向かった。

 

駅について、そういえば昼食をまだ取っていないことを思い出す。そんなにお腹は空いていなかったけれど、これから夜までバイトが続くことを踏まえ駅の地下にある喫茶店で軽食を食べることにした。地下道を歩いて目的の喫茶店に向かい、入り口から店内に入ろうとした時、入り口付近の席に座る一人のおばあちゃんの背中に気づく。真っ白いふわふわの髪の毛と、綺麗な色のトップスを着た丸くて小さな背中越しに、カラフルなパフェが見えた。今日は少しオシャレをして買い物をした後ここにパフェを食べに来たのかな、なんて、人の日常を勝手に美化した妄想を膨らませながら、でもそれを止められないくらい良い景色を見たなと思いながら店内に入った。

バイトの最寄り駅の地下街にはいくつか飲食店があるが、わたしはこの喫茶店が一番気に入っていた。狭い店内は細長い長方形をしていて、長辺に設えられた大きい窓からは行き交う人々の足が見える。ガラス一枚隔てたすぐ横では大勢の人がひっきりなしに往来している一方で、ガラスのこちら側ではみんな席に座ってのんびりと時間を過ごしている、私はこの対比を感じる瞬間が面白くてすごく好きだ。だから一人でこの喫茶店に来る時はいつも決まって窓際の席に座る。この日は比較的店内が空いていて、いつもに増してゆっくりとした空気が漂っていた。窓際の太い柱の横の席について注文を終えた後、タバコを吸おうと思ったら灰皿がない。隣のテーブルから拝借しようと思って見たものの、どうやらどのテーブルにも灰皿が見当たらない。そのまま目線を壁へ移すと大きく”禁煙”の文字。店内は分煙で喫煙が可能だったこの喫茶店は、いつの間にか全席禁煙に変わっていたらしい。これからこうやって喫煙できる飲食店はどんどん減っていくんだろうな、と少し悲しくなった。もちろん非喫煙者の方々からしたら、喫煙者が多くて行きたくても行けないという店が減るというのはすごく喜ばしいことだろう、と思う反面、私たち喫煙者は何も法を犯しているわけじゃないんだからそんなに悪者扱いしなくても良いじゃないと、少し拗ねたような気持ちになる。タバコに関する法律を制定するしない、なんて問題をニュース番組で見ると、喫煙者が嫌いで邪魔ならそんな回りくどいことせず、いっそタバコを法律で取り締まれば良いのにと思う。いや、それはちょっと言い過ぎか。

 

事務所でのバイトを終え終電で帰宅。この日のバイトでは図面などの製本作業をしたのだけど、それがとてもとても楽しくて、大きくなったら製本屋さんになりたいと思った。家についてから修論の作業を少し進めようかと思ったけど気が乗らず、シャワーを浴びてベッドに入った。そのままぼーっと考え事をしながら時間を過ごしていたら、あっという間に窓の外がほの明るくなっていた。最近は5時前には空が明るい。もう夏がそこまで来ている。

The night is young.

昨日の夜はうまく寝付けなかったので朝方までずっと起きていた。昨日の夜「は」というのは少し違っていて、寝付けないのはここ最近毎晩のことなのだけど特に何か悩みがあるわけではない(と思う)し、これは実際のところ、ただ単純に私がそうしたくてそうしているだけだ。ということは「うまく寝付けなかった」というのも表現としては正しくないかもしれない。訂正→『昨日の夜はそうしたかったので朝方までずっと起きていた。』

 

私は夜を出来るだけ長く過ごしたいと思っていて、同様に朝は出来るだけ寝ていたいと思っている。朝が嫌いというわけではないけれど、早起きして見る日の出よりも、夜の延長線に迎えるそれの方が圧倒的に好きだ。「午前中を寝て過ごすなんてもったいない」と言う人が居るなら、私は「夜を寝て過ごすなんてもったいない」と返したい。

空間デザインの分野で使われる用語に”ソシオペタル”と”ソシオフーガル”というものがある。ソシオペタルというのは、例えば会議室などのように全員が内を向くように配置された求心的な空間を指していて、ソシオフーガルは反対に、駅のベンチなどのように全員が外を向くように配置された遠心的な空間を指す言葉である。私は夜に”ソシオペタル”を、朝に”ソシオフーガル”を感じる。これはあくまで私の感覚的なものだけど、夜というのはすごく密な場所で、存在する全てのものが柔らかい粘土のようなものでキュッと包まれているような気分になる。そして周りがだんだん明るくなるにつれて自分を包んでいた柔らかな粘土がほろほろと砂のようになっていって、朝になるとそこは全てが発散する場所に変わる。夜と朝とでは、睡眠を摂る前後という違い(そして個人的にそれはあまり関係ないようにも思う)以上に、そもそもの空間的な性質が全く異なるように感じる。私は夜という密で優しい圧力を感じる場所が好きなんだと思う。一人で過ごす夜も、二人で過ごす夜も、大勢で過ごす夜も、夜はどんな夜でも全部好きだ。

 

今の自分が思う存分好きなだけ過ごすことが出来ている夜をいつしか過ごせなくなる日がやって来ると思うと、寂しいような苦しいようなそんな気持ちで胸がいっぱいになって、恐らく今日も私は眠らない夜を過ごす。

宣誓

最近ツイッターを触らないようにしている。その代わりに日記を書こうと思ってこうやって1年以上前に作ったブログを引っ張り出してきた。毎日自分が考えていることを文章に残しておきたいと思って日記を書こうと試みるのだけど、大体いつも途中まで書いて止めてしまう。私は何事においても最後までやりきることが苦手だ。これまでの人生を振り返っても最後までちゃんとやりきったことなんてほとんど思い出せない。そんな中途半端な人間ゆえ、どんどん増え続ける下書きと更新が止まったままのブログ。とはいえ一度更新してしまえば多少勢いも付くのではと思い、先ほどまで書いていた(途中で書く気が失せてしまった)日記を一度下書きにしまって、新たにこの記事を書き始めた。

 

ブログを更新しようと考えたのと時を同じくして、久しぶりに過去の自分の日記(更新した記事以上にある下書きも含む)を読み返した。ブログを書いている途中で書く気が失せてしまう理由の一つとして『自分は一体何を書いているんだろう…』という、恥ずかしさとも虚しさとも取れるなんとも言えない気持ちに苛まれることが挙げられるのだけど、これがある程度時間が経って読み返してみると中々面白いことに気づく。すごく個人的な日々の記録からその当時の自分が考えていたこと等、内容は様々だけど改めて今読んでみるとその文章を書いた当時の記憶が蘇って不思議な感覚になる。一応ブログに載せる日記として書いているから文章は人に読まれることが意識されていて、自分だけのために書いた走り書きの記録ともまた違う色があり、(未来の自分へ良い暇つぶしを提供する為にも)やはり自分はこういう記録を何かしらどこかにきちんと残しておきたいと改めて思った。

 

余談だけど、私は比較的気分が落ち込んでいる時や憂鬱な時、特に筆が乗る傾向にある。このブログを作ったのは昨年の年始で、その頃はかなり塞ぎ込んでいた時期なのもあり更新されているものの他にも当時の下書きがいくつか残っていて、昨年の5~6月頃に至っては一度もブログの更新はしていないものの下書きが最も数多く残されている(ちなみに昨年の昨年の5~6月頃というのは、私が大学(研究室)に行けなくなった時期のことです)。

 

日記を書きたいと思いつつも筆が乗らない今は、つまり割と元気な状態だということで、それをありがたく感じつつ苦しみながらもこれから出来るだけ日記を書いていこうと思う。

 

おわり

春が来た

最後にブログを書いてから早2ヶ月以上が過ぎていて、いつの間にか春が来ていた。

私はこの春、大学院の2年生になる。もう授業単位は昨年の内に全て取ってしまったので、あとは日々のゼミに出て修士論文を書き終えれば卒業ができる予定。

今のところ、卒業するまでの時間をまだもうちょっと延長しようかと思っているので、社会に出るまではもう少し時間がかかりそうなのだけど、順当にいけばもう学生を終えて社会人になる準備は8割方済んでいる。とかなんとか自分で言っていて、信憑性はほぼ無いに等しいですが。まじか?

 

 

 

さっき自分で春が来た、と書きましたが、春が来るってどういうことかな?って思いました。

春が来るってことは、自分の居場所は変化していないということ?自分は前進も後退もしていないから、同じ場所にいるから、毎年必ず春が自分の元に来るの?というか、そもそも自分が前進したりとか後退したりってどういうことだ?

 

 

 

 

そういえば、むかしこんなツイートをしました。

 

 

この引用によると、春が来るわけではなく、自分が春(という場所)に移動してるということなんだけど、それだって自分の力や意思で移動している訳ではなくて、地球という名の動く歩道が自分を春へ連れて行ってくれているのだと考えると、それはもう、ほぼ変化の無い自分の元へ惰性で毎年春が来てくれているのではないかと思ってしまう。

 

 

 

 

全然違う話をします。

自分が普段行動を起こすとき、その行動をしたいと思うのはどれくらい強い気持ちなのか、ということをを最近考える。

例えば、テストの前日にテスト勉強をしなきゃいけないけど眠い、みたいな時に「テスト勉強したい気持ち(そんな気持ち起こるかな、きっとこれは単位が欲しいという気持ち)」と「寝たい気持ち」が衝突すると思うんです。

その時、正常の人間は寝たい気持ちも抱きつつ、単位が取れなかった時の場合をちゃんと想定して(再履修する手間とか、卒業が危ぶまれる状況に陥ることへの危惧とか)ちゃんとテスト勉強をすると思います。まあそれで実際に単位が取れるかどうかは置いておいて。

つまりこれは「寝たい気持ち」よりも「勉強したい気持ち(単位が欲しい気持ち)」が上回った結果だと思う。

 

一方で、別にテスト勉強をせずに寝てしまう人だっていると思う。それは別に悪いことではないと思います、個人的には。全然悪いことじゃない、いや、悪いことなんだろうけど、気持ちはわかるので。

ただそのとき、テスト勉強をせずに寝るという行為が、ものすごく強い「寝たい気持ち」が「勉強したい(単位がほしい)気持ち」をどうしようもなく上回ってしまったことによって引き起こされたのか、「勉強しなきゃいけないけどめんどくさいな~寝ちゃおうかな~」てな感じで、ただ楽な方に流されてしまった結果なのかでは、まったく全然大きく違うと思う。

どのみち結果は「勉強せずに寝る」なので、怠惰な自分を棚に上げて何を言ってんだって感じですが、これって本当に自分の精神衛生上、全然違う選択なんじゃないかなと思うわけです。

 

 

一見ネガティブな行為だって、そのときに本気でしたい!と思ったことなら、やっちゃえばいいんじゃないかな~って最近思う。というよりも、自分の場合、そうじゃないならやらない方が良いです、あとで絶対に自己嫌悪に陥るので。

もちろんその時衝動的にしたい!と思ったことを、あとから後悔することだってあると思うんだけど、これは反省できることというか、まだ改善の余地があると思うんだけど、楽な方に流されるのって、あとから後悔しても改善策は「楽な方に流されない」ってことしかないと思うし、これって結局改善策なしってことだと思います。頭ではわかっててもできない人間が楽な方に流されんだよね。

 

 

だから、そもそもそういう癖をつけないのが本当に大事だなって、癖になっちゃってる人間が最近めちゃめちゃ強く思います。

楽な方に流されるってなんだか受け身な言い回しだけど、結局春と一緒で、本質的には自分が楽な方にアクションしてるだけだから、動く元気があるならせめてどう動くかは「楽だから」じゃなくて「やりたいから」で決めたいですね、っていう話でした。

 

 

終わり