書き置き

男の人の前でタバコを吸うのが怖い。正確に言うと、私が喫煙者であることを知らない年上の男の人の前でタバコを吸うのが怖い。私がタバコを吸っている姿を見て驚いた顔をした後少しがっかりするような素振りをされるのが、すごくすごく、ものすごく嫌だ。昔の記憶、テーブルの上に置かれたくしゃっと潰されたタバコの空き箱と、もくもくと口から煙を吐きながら言われたあのセリフが、いつまでもはっきり頭の中でリピートされる。『お前タバコ吸うのか?女性がタバコ吸うのは最悪だよ、まずタバコを吸う女は肌が汚い。女性は絶対にタバコを吸わない方が良い。』

 

 

先日、研究室の教授の事務所へアルバイトに行った。細々した仕事を一つずつ片付けていって夜の10時を回った頃、任されていた全ての仕事が完了してしまった。普段は大体12時近くまで仕事をしていて、恐らく今日もまだ任されていないだけで未着手の仕事があるんだろうな、と思いつつ仕事を振ってくれる事務所の人はちょうど打ち合わせ中で、完全に手持ち無沙汰になってしまった私は、一緒に仕事をしていた後輩から言われた「タバコ行きませんか」の一言に、少し考えて「そうだね」と返した。

これは偏見かもしれない実感として、建築事務所で働いている人の喫煙率は全体の平均と比べるとものすごく高いと思う。ここの事務所も例外ではなく、十数人いる所員の中でタバコを吸わないのは紅一点である女性の所員さんただ1人だけだ。そんな環境でありながらも、この事務所の「喫煙所」と呼ばれる場所は非常階段に接続している小さな小さなテラススペース1つのみで、日中このテラスに行けば必ず誰か1人は居る、というのがここの日常となっている。例に漏れず、私も建築事務所で(アルバイトとして)働く喫煙者だけれど、私はこれまでこの喫煙所でタバコを吸ったことが一度もなかった。

少し緊張しつつ、ただ今所員の人たちはみんな打ち合わせ中だからきっと鉢合わせることはないだろうと考えながら、後輩とくだらない話をしながら小さなテラスでタバコを吸った。その時の私は完全に気が緩んでいたんだと思う。ガチャっという扉の開く音と共に、数人の所員さんが喫煙所に入ってきた。その瞬間、全身の血の気が引いて、私は扉の方に顔を向けることができなかった。案の定、背後から「なんだ、さとうさんタバコ吸うんだ」と少し驚きを含んだ声が聞こえて来る。私は今すぐ消えたい気持ちでいっぱいだった。

 

 

私は大学院の途中で研究室を移動している。このことについて言及するのは、すごく難しい。特に話したいことがないといえばそれまでだけれど、この一連の経験は多分私の中で一生消化しきれない出来事でもあると思う。結果的に私は研究室を辞めて、現在は無事新しい研究室に籍を移すことができたので何も問題はない。ただ、今でもあの頃の色々な記憶がフラッシュバックしてきて気持ちがダメになることがある。むしろ、研究室を移動する前には麻痺して感じていなかった痛みまで、今でははっきり知覚できるようになってしまった。セクハラ、パワハラ、最近ではよく目にするワードを目にするのも辛い。最近ツイッターを触りたくないのもそのせいだ。様々な意見を目にする事が出来る自由な場であるインターネット上で、様々な意見を目にする事が辛い。色んな意見を持つ人がいる事実を、知りたくないと思う。

少しそれた話かもしれないけど、以前ツイッターで連携させているお題箱に「さとうさんはフェミニストなんですか?」という質問が来ていた。私はこれに何も答えなかったけれど、多分答えはNOだ。この質問をした人は、私がツイッター上で時々フェミニズムを感じさせる発言をするのを受けて、そう投げかけてきたのではないかと思う。自分でも自分の事はよく分からないし、私の事をフェミニストだと思うのであればそれはそれで構わない。ただ、私が「そういう」内容のツイートをするときに何よりも強く考えているのは、女性の立場を守りたいとか男女平等を目指したいだとか、そんな大それた事ではなくて、私を否定しないでほしい、ただそれだけだ。

『断ろうと思えば断れたはずなのに』『結局どちらにも非はある』『騒ぎ立てるほどの事でもないのでは』そんなの全部わかってる。とっくに何百回、何千回と自問自答を繰り返してる。うるさい、全部うるさい。私の事を誰も否定するな。私の事を否定していいのは私だけだ。頼むから、もう何も言わないでほしい。

 

 

狭い喫煙所の真ん中で血の気が引いている私に、その後待っていたのは穏やかな歓迎だった。「なんだ、さとうさんタバコ吸うんだ!知らなかった。遠慮せず普段からここで吸えばいいのに」もちろん私も、世の中の男性全てが喫煙者の女性に対して批判的だなんて、そんな事は思っていない。むしろそんな男性は少数派だという事も知っている。それでも、過去に投げかけられたあのセリフを忘れる事が出来ない。きっと受け入れてくれるはず、そう思っていてもタバコを持つ手が緊張で微かに震えるのを止められない。

 

この日記は、誰かに何かを伝えたくて書いたわけではないし、これを読んで何かを感じてほしいわけでもない。ただ、現在の自分が感じている事を書き残しておきたかっただけだ。

そう書きつつ、誰でもない誰かに、私の過去を全て許してほしいと思ってしまう。