新年明けまして

今日は2017年の1日1日。現在は岐阜にあるおじいちゃんの家へ一人電車に乗って向かっている最中。両親は一足先に大晦日の昨日、岐阜に到着していて、イギリスにいる妹は今年は帰省しないとのことで、今頃元旦の朝を友達と過ごしているのだと思う。妹がイギリスの大学に通い始めるまでは、大晦日の昼ごろ家族みんなで車に乗り込んで近所のマクドナルドでお昼ご飯を買い(最近はお父さんの意向によってモスバーガーに変更されたのだけど)、父の運転で岐阜に向かって年末年始の3日間をおじいちゃんの家で過ごすのが、私の家族の毎年のお決まりだった。

 

私は昨年から、大晦日から元旦にかけて神社で巫女のアルバイトをしている。大学の近くの小さな神社で、やることといえば巫女の格好をして参拝客に御神酒を注ぐというただそれだけなのだけど、寒空の下薄い肌着のような布を一枚羽織って(友達は装束の下にライトダウンを着込んだりしているけれど、袖口からダウンがちらりと見えた時の虚しさが、アルバイトとはいえ好ましくないと個人的には思うので、私はヒートテックを一枚だけ着てかつ袖を肘のところまでまくるようにしている、誰に頼まれたわけではないのだけど)、冷たい日本酒を手にしたたらせながら何時間も立ちっぱなしで笑顔を貼り付ける仕事は、やってみると意外と楽じゃない。そもそも始めたきっかけは去年、それまでそこで毎年巫女のアルバイトをしていた大学の先輩が、自分がもう卒業してしまうということで私と友達に代わりをやってくれないかと頼んできたからで、寒いのと眠いのと立ちっぱなしの足が痛くなること我慢さえすれば、時給も待遇も良い(相手側の、こちらがお願いしてやってもらっているというスタンスが2年目でも崩れず、とにかく待遇が素晴らしい)、願ったり叶ったりなアルバイトであるとは思うのだけど。

 

このアルバイトをしている最中ずっと不思議に思っているのが、なぜ参拝に来る人々はこんなにも神社に金を落としていくのかということだ。アルバイトの巫女である私たちが注ぐ御神酒は金箔の入った日本酒で、味も値段もなかなかのものではあるにせよ、量にすればおちょこ一杯にも満たない施しに対して、「お志」と名のついた賽銭を100円200円、多い人だとお札を渡してくる人もいる。これはどういうことなのか。日頃生活費をできるだけ抑えるべく、スーパーの特売品に目を凝らし、無駄な買い物を控え、家計の苦しさに嘆くお母さんたちが、御神酒の飲めない子供がもらう一欠片のあたりめに対して200円も払うというのは一体、どういうことなんだよ。みんな正月のめでたさで頭がおかしくなっているんだと言われれば納得したくなる反面、私は日本人の宗教観というものの不可解さに自分の思考が飲み込まれるような気持ちになる。

 

私の妹は現在イギリスに住んでいて、私の家族(親族)の中で唯一のクリスチャンである。高校生の時に普通科ではなく英語科に進学したのもあって、もともと自分(日本)と異なる文化に興味があったのだと思うのだけど、私が大学1年生で彼女が高校2年生の冬、突然妹がキリスト教の洗礼を受けたいと言い始めた。妹は本当に私と性格が真逆で、普段から突飛なことを言って父が雷を落とし、母が二人の様子を見ながら辟易とする(私はそこに一切関与したくないので存在を無にする)のが家族内のデフォルトであったのだけど、その妹の発言を聞いて真っ先に激怒したのは母だった。私は母のその反応に少し驚き、少し残念な気持ちになった。このご時世、世間では散々文化や価値観の多様化が謳われている最中、全世界で一番信者の多いキリスト教を真っ向から否定するなんて、母はこの瞬間何人の敵を作ったんだと思ったからだった。ただ話を聞いているとどうもキリスト教を否定しているわけではなくて、妹がクリスチャンになること、より正確にいうと、母の娘の内一人がクリスチャンになることを、阻止しようとしていることに気づいた。母はとても心が優しく、思考は穏やかで、物腰の柔らかい素敵な女性だと私は思っているのだけど、話していると感情論で自分の意見を述べてくるので、母と議論するのが私はあまり好きではない。だからなぜ母が妹の洗礼をあれほどまでに必死になって食い止めようとしたのか、その真意は私にはよく分からないけれど、ある時私と母、二人でそのことについて話した際に母が言った「あの子は、大半の日本人は無宗教だと思っていて『それがが世界的に見れば恥ずかしいことだってみんな知らない、信じるものがないなんて何も考えないで生きていることと同じだ』って言うけれど、日本には八百万の神という考え方があるでしょう。私はその考え方が自分の中にも染みついていると思うし、多くの日本人もそうだと思う。それの何が恥ずかしいの。一つのものを信じることの方がよっぽど怖いと思わない?」という発言が、強烈に自分の中に残っている。この発言を聞いてからずっとずっと、無宗教とはなんなのか考えている。考えるのだけどよくわからない。このエピソードが強烈すぎて、というよりも、あの母からこの発言が飛び出してきたことが本当に私にとって衝撃で、どうにもここで自分の思考は止まってしまい未だに進んではくれない(というより進めたい方向がどちらなのかわからない)ので、これ以上この話について書き綴ることはできないのだけど、今私の研究室に来ている留学生とたまに宗教について話をする度に、日本人が自分で主張する「無宗教」という宗教について、自分の考え(と言えるような段階ではないけど)について議論したいと思いつつも、そのもの導入すら上手く伝えられないもどかしさを感じる。それは私の語学力の問題でもありますが。

 

ただ、母の言う「一つのものを信じることの怖さ」というのにはとても共感できるなと思った。私はお正月や祝日の時に街中に飾られる日本国旗が昔からすごく怖い。なぜかははっきり説明できないけど、きっと日本国家という一つの概念に向けられる大勢の人々のエネルギー?みたいなものが、自分にとってはなんとなく居心地が悪く、嫌だなあと思ってしまうからなのかなあと思う。これは母がキリスト教(に限らず唯一神を崇拝する宗教)に対して感じるような印象と同様なのかもしれない。

 

話は変わって、昨日の夜。参拝客がだいぶ減ったあと自分でも参拝をして御神酒を注いでもらったのだけど、そういえば、その時私は何の疑問も抱かずに志を100円払った。おちょこ一杯にも満たないあの御神酒には、それくらいの価値があると思ったから。

電車がおじいちゃん家の最寄駅に到着したので、終わります